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長者平異聞
鍋倉山へ沢登りへ行った帰り、狭い林道を下りたすぐの猪避けの柵のしてある田んぼで野良仕事をしている腰の曲がりかけた老人に少し話しを聞いてみようと柵の切れた所から畦道を下りて行った。


「こんにちは。」

「・・・」

「この谷は何というんですか。」

「ドウタニいってな・・・、上の山はキンザン。昔何かが採れるいってここからちょっと上がった所に大きな穴堀りよったがなんも出なんだ。木が茂ってこっからでは谷がどこにあるんか見えんじゃろ。」


「ここの谷をつめて鍋倉山へ登って今下りてきたとこなんです。」

「ほう、よう行ってこられたなあ。そっちはオハラ川。この辺の谷はどこの谷にも名前が付いとって昔はあそこへ行くといやァどの谷かすぐわかったもんじゃが今は誰も入らん。」

「ヒルか、ヒルはここらにはおらん。」
「わしはずっとここにおるがいっぺんもヒルにかまれたことは無い。この山を向うに越えて谷山の方へ行くとようけおる。土が違うんじゃ。」

「この辺はな、大昔、クマサカチョウハン(熊坂長範)ゆう盗賊が住んどって、その当時はこのへんも栄えとったそうじゃ。三百人ぐらい人が住んどって滋賀の方へ行っては山賊をしとったと聞くがな。ほれ、ちょっと陰になっとるが、あそこの木の向うにお宮の跡がある。クマサカチョウハンが建てたお宮さんじゃ。広い道に出て下った所にクマサカチョウハンを祭った寺もある。」



*長国寺跡の案内板より*

壬申の乱というから今から1300年以上前、大友皇子(弘文天皇)が自害し乱の終結後その寵媛、満姫が父と一族郎党をともないこの地に逃れてきた。この山麓に田畑を開拓し、さらに付近で砂金を発見したこともあり二百余戸の集落となり、この辺りを長者平と呼ぶようになった。その頃畿内を中心に行脚し寺を創建していた僧行基はこの地に長国寺を建てた。それから二百数十年後の源平のころ、時の半官である源義経による熊坂長範追討のさい関わりがあった長国寺とも長者平の一族は各地へ分かれ長者の里はなくなったという。



「クマサカチョウハンがおった頃はこのへんも栄えてな、金の甕が五つあったということじゃが、二つはどこへ行ったかわからんが、三つは大垣のお城に行ったと聞いとる。」

「粕川か。昔粕を集めて流したんじゃが、それで粕川じゃ。春日村の“カス”も元はその粕からきとるんじゃ。」


始めは怪しい若造が入ってきたと思ったのか疑ったような顔でしたが、話すうちにあれこれと色んな事を教えてもらい、最後にお礼を言って畦道を戻りました。
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by faggio | 2010-06-10 10:02 | Comments(0)
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